いぬのせなか座<br>連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト<br>第4回「小さな灰色の矩形」

2019.5.19

いぬのせなか座
連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト
第4回「小さな灰色の矩形」

講師

いぬのせなか座

ゲスト

𠮷田恭大

日程

5月19日(日)17:00スタート

料金

2,000円

5.19 SUN17:00
  • オープンはスタートの30分前になります。
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_今回は特別編です。3月31日に発売された、いぬのせなか座叢書第3弾『光と私語』の著者である𠮷田恭大さん(1989-, 歌人・ドラマトゥルク)をお招きし、メンバーとの座談会を行います。
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_一人称性、作者性が強くなりがちな短歌という形式において、自分語りにもキャッチコピーにもならずに、いかにして作品間の同一性を保つか。ともすれば「人間の」「感情を」「描く」ものだと解されがちな言語芸術の共同体にあって、人間が人間的であろうとしなくても存在できるシステムをいかにして目指すか。
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_『光と私語』は、こうした問いへの応答を試み、一定の成功を収めていると私たちは考えます。例えば都市の遠さ、部屋の明るさ、交通の匿名性、老いの増殖性といった素材を用いることで。詠み/詠まれる対象の「解像度をわざと下げる」(堂園昌彦)ことで。詩歌の定型を展開し、解体し、再設計するべく、余白と矩形のレイアウトを多機能的に配置し、複数の規則を、書物の造形において走らせることで。
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_そこで当夜は、「まるで詠んでいないような読み心地」を与えてくれるこの歌集を出発駅に、詩歌、散文、映像、美術、演劇といった諸ジャンルが、この10年ほどの間に生じた人称と主体の変質をどのように実作へ組み入れ、どのように応じてきたかを語り合います。その実践例として、『光と私語』収録連作「ト」をもとにした映像作品『6畳の白い部屋その床面にあなたは水平に横たわる』も上映予定です。
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_今回の座談会は、近年の短歌史から見た現在をめぐる討論には留まりません。いぬのせなか座との対話は、かつて𠮷田さんが影響を受けたという作り手たちの企みに、いくらか近づき、同時に遠ざかるものになるでしょう。例えばアンドレイ・モナストゥイルスキィ(1949-)が、友人たちと「集団行為」(1976-1986)を通じて試みたように。あるいは維新派(1970-, 1980改名)が、世界各地を「漂流」しながら示したように。地点(2001本格化)とマレビトの会(2003-)が、上演作品における時制、人称、動線の操作によって試みてきたように。
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_いぬのせなか座叢書は、本が作られ、読まれる過程を通じて、新たな共同制作の技術や場の生成、伝達を試みるシリーズです。第1弾『灰と家』(鈴木一平, 2015)、第2弾『地上で起きた出来事はぜんぶここから見ている』(河野聡子, 2017)でもそうしたように、『光と私語』を着想し、執筆し、編集し、校閲し、設計し、デザインし、装釘し、印刷し、広告し、販売し、手に取り、持ち歩き、読みこなし、引用し、対話し、批評し、実演し、そして新たな制作に向かうこと。そうした日々をより多くの方々と過ごせるように、本書に組み込まれたプログラムを起動し、詳しく分析しながら、その表現のありようを提示します。
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_ふり返れば、2018年6月におこなった第1回は、「言葉の踊り場」と題して、日本語による近現代詩の技術表現史を扱いました。鈴木一平が中心となって、萩原朔太郎や北川冬彦、春山行夫、北園克衛、北原白秋、萩原恭次郎、富岡多恵子、安東次男、田村隆一らの作品や詩論を分析しました。
_西欧詩の形式の輸入として始まった『新体詩抄』(1882)以降、明治の詩人が七五調を頭に置きつつ、「内面」「リズム」と呼んだものは何だったか。その問いを再解釈した大正の詩人がなぜ「純粋なポエジー」「見たままの詩」を目指したか。昭和前期の詩人が「言葉のオブジェ化」や「平面のレイアウト」をどう推し進めたか。戦後の詩人が、行単位の情報量や話者の位置、紙面全体の時間の流れを、いかに細かく気づかい、調製しているか。詩が詩であるために、いかにして「言葉」以外の要素が必要とされたか。その典型的な技術のひとつである「改行」に着目した議論を行いました。
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_第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」は、認知言語学や、時枝誠記・吉本隆明をはじめとする論者らの議論を参照しつつ、視覚詩や俳句・短歌・詩の具体例を検討し、言語表現をめぐる思考と技術の新たな体系化を目指しました。
_議論を主導した山本浩貴の立論では、読み手/書き手が紙面に並べられた文字と向き合うとき、そこには語ごとに相容れない主観性(Subjectivity)が――読み手/書き手がその語から何らかの素材(Material)を抽出し、その語の把捉者の「私」(Personality)を演算しようとするモチベーションが――生じます。
_この動きは、例えばその語が帯びる音数律、配列、順序、頻度、構文法といった、非-言語のフレーム群によって拘束され、多重化されます。物性(Objectivity)と総称されるこのフレーム群は、語が文節に、文節が行に、行が文にと生成されるなかで、紙面にいくつものモチベーションが生成し、膨張し、混淆され、縮減される環境(Environment)として機能します。
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_このとき、紙面に展開される「レイアウト」とは、有限の語群に潜在する無数のフレームとモチベーションが交錯する「時空間」の、「圧縮/展開」を起動する「装置」だと見なせるでしょう。その語群を操作する読み手/書き手は、「圧縮/展開」の崩れやもつれ、狂い、外れ、空白によって顕現される事物(Object)と、その「時空間」を抱え込む私(Subject)の所在を観測するでしょう。すなわち、「読み/書くこと」とは――もしくは〈作者〉になるとは――、そのように異種の/複数の/相容れない私(Subject)が行き交う場で、その設計と参与を自身の身体に痛感させることであり、であれば「言語表現を酷使する」ことは、「死なないための家づくり」にほぼ等しい。
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_だとしたら、どうすれば「その上手な方法」を身に着けられるのか? 自然言語処理が膨大な〈作者〉を大量に抽出、変換、移転できるようになり、パーソナルデータの越境取引が国際通商上の冷たい戦争を引き起こし、「読み書きのリテラシー」は「個人」が貧困から脱け出す「技能」だと見なされる世相にあって、動画データと音声認識と物体検出が物理空間を絶え間なく「テキスト」に変換し、配信し、保存する社会で暮らす僕たちは、どんな「部屋」に住み、どんな「じぶん」を作り上げ、誰の「死後」に向けて、何を「教える」ことができるだろうか。
_第3回「10日で文章を上手にスル方法」は、ご来場の方々からたくさんの「声」をいただきながら、みんなで「その方法について考える方法」を話し合いました。「リテラシー」という語が5通りの意味で語られ、「言葉が通じないひと」のことが、ちょっとだけ物議を醸しました(講演記録は当日までにnoteで発売予定。上演用テキストはGoogleドキュメントで公開中です)。
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_それらを踏まえて、第4回を開催します。なんだかDizzyな夜になりそうです。

予約方法:
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※件名「いぬのせなか座」本文に「名前」「電話番号」「枚数」をご記入ください。こちらからの返信をもってご予約完了となります(24時間以内に返信します)。定員になり次第受付を締め切らせていただきます。
※予約キャンセルの場合は、お手数おかけしますが、 必ず事前にご一報ください。

お問合せ:SCOOL
メール info@scool.jp

いぬのせなか座

山本浩貴(1992年生)+h(1993年生)、鈴木一平(1991年生)、なまけ(1991年生)、笠井康平(1988年生)からなる制作・批評グループ。詩や小説、散文作品の制作はもちろん、書籍の編集・デザインやパフォーマンスの上演、『ユリイカ』『文藝』『現代詩手帖』など各種媒体への批評・論考の寄稿など、さまざまな角度から言語表現の可能性や他表現ジャンルとの関係、共同制作の手法や意義などを考え、提示している。

𠮷田恭大

1989年鳥取生まれ。
歌人、ドラマトゥルク、舞台制作者。
塔短歌会所属。早稲田短歌会出身。
2017年4月より北赤羽歌会を運営。